福島|震災と原発災害を見る

福島県震災遺構ツアー請戸小学校
福島県浪江町 震災遺構・請戸小学校(校舎に津波が襲うも、全員避難し無事だった)

 2011年3月11日、東北沿岸部を中心に未曽有の被害をもたらした「東日本大震災」。
 福島県でも、地震、津波、さらに原発事故まで加わり、甚大な被害を受けました。特に福島第一原発20km圏内や北西方向の町村は、復興への道のりも長くなってしまいました。
 現地では、被害状況と復興への道のりを記録、伝承しようとしています。
※弊社での手配は、観光バス等の利用を含む10名様以上での手配となります
 (個人での原発視察は、現在のところ原発側でも受付していないようです)

福島第一原発、中間貯蔵施設を視察

 2023年1月、福島第一原発と中間貯蔵施設を視察してきました。

福島第一原発

 東京電力職員の案内で、廃炉に向けて作業が進められている福島第一原発。構内の線量は、見学可能なレベルまで下がってはいますが、実際の線量を測定しながら1~6号機の様子を見学します。
福島第一原発を視察見学廃炉に向けて作業中の1号機前

廃炉資料館

 東京電力が、原発事故の反省や教訓、廃炉現場の最新状況等を社内外に伝承するために開設した資料館。原発事故当時の状況、事故の教訓や廃炉進捗状況等について学ぶことができます。
東京電力廃炉資料館廃炉作業についての説明

中間貯蔵施設

 除染作業で除去された土壌等を管理する中間貯蔵施設。原発の見学とは別に見学可能です(予約制)。黒い袋に詰められた汚染土壌は、枯れ木や金属等を除去され、一時的に地下に貯蔵されます。環境省から委託を受けた中間貯蔵情報センター職員が案内してくれます。
除染時に出た汚染土壌中間貯蔵施設内

震災から10年経過、復興に向けて…


2011年7月南相馬市(原発20km圏境界)

2021年3月 JR双葉駅

 震災から満10年を迎えた翌日、2021年3月12日に原発に近い双葉町、浪江町を訪問してきました。弊社スタッフが個人的に支援と併せて視察してきた、当初の模様と合わせてご紹介いたします(2021年の掲載記事です)

双葉町| JR双葉駅旧駅舎

 2020年3月常磐線が再開通し、新駅舎が開業しましたが、隣に旧駅舎屋も残され、休憩所や展示スペースなどに利用されています。
 シンボルだったからくり時計は、14時46分を指したまま止まっています。
 駅周辺では、まだ倒壊した家屋や店舗が残されたまま。揺れの大きさを静かに物語っていました。

双葉町|東日本大震災原子力災害伝承館

 双葉町で立ち入りが解除された沿岸部に建てられた「東日本大震災・原子力災害伝承館」。
 こと原発事故を中心に、当時の映像や写真を使って展示されています。
 私たちは緊張感も感じながら見学するのですが、実際に現場にいた住民の方々にすれば、この何十倍、何百倍もの出来事だったはず。きっと伝えきれていないモノもあるはずですが、それでも1度は見ておくべき展示かと思います。

周辺は一見、何もない野原のように見えますが、津波に襲われ、がれきが撤去された跡地です。
 

浪江町|請戸小学校(震災遺構)

 双葉町に隣接する浪江町の海から300mのところにある請戸小学校。津波の脅威を物語るこの校舎は、2021年秋、震災遺構として公開されました。

 当時の学校にいた生徒・先生方は、いち早く避難を開始。津波が到達する前に、2kmほど内陸の大平山へ。全員無事でした。
 しかし、その後、間もなく原発事故による避難指示が発出されることにもなりました。  

・大平山霊園

 請戸小学校から約2kmほど内陸にある大平山。 海側は霊園となっていますが、ここから浪江町沿岸部一帯と、遠方に請戸小学校、その向こうに海の姿も見えます。
 決して何もなかったのではなく、この一帯にも多くの住宅や建物があったそうです。

 小学生たちは、大平山を越え、海とは反対側の国道へと、運送会社のトラックで役場へと逃れることができました。

富岡町|夜ノ森の桜並木

富岡町夜ノ森の桜並木
(桜の写真は「福島県観光物産交流協会」提供)
 富岡町誇りの桜のトンネル。
 始まりは明治時代の植樹に由来し、樹齢80年以上の木も多いです。
 原発事故後、全域が避難区域となった富岡町。2017年4月、並木道の一部を含む町面積の約88%で避難指示解除されましたが、周辺では、まだ帰宅困難地域が残されています(注:2021年3月時点)
 町民の方は勿論、この周辺地域の方々にとって想いを寄せる場の1つとなっています。
追記:2022年夜ノ森の桜並木は、全面通行可能になりました

震災発生からの経緯

震災発生からの経緯 以下は、ほんの障りにしかすぎませんが、震災当初からの経緯と、その後、弊社社員が個人的な東北支援活動の際に撮影してきた写真で被災地の様子をご紹介します。

原発事故発生~避難開始までの概略

2011年3月11日
14時46分 地震発生(原発周辺では震度6強)
 各原子炉は緊急停止。外部電源喪失や損傷のため、非常用電源に切り替わる。
15時30分 福島第一原発に高さ13~16mの津波が襲来。
 非常用電源も海水に浸かり、全電源喪失。計器類も動作不能に。
 (1号機は冷却機能喪失、原子炉の温度が上昇、19時頃に炉心融解が始まる?)
20時50分 福島県は第一原発1号機から半径2km圏内(大熊町・双葉町の一部)に避難指示。
21時23分 国が半径3km圏内に避難指示(3~10km圏内は屋内退避)
 23時頃、1号機原子炉の圧力異常上昇を確認。
 手動によるベント(格納容器内の蒸気を放出する緊急措置)の準備がはじまる。
 
2011年3月12日
5時44分 福島第一原発半径10km圏内に避難指示
(7時45分 福島第二原発でも水温上昇のため3km圏内に避難指示)
14時30分 ベントには成功するも作業員が被曝。
15時36分 福島第一原発1号機 建屋 水素爆発
(17時45分 福島第二原発10km圏内に避難指示)
18時25分 福島第一​原発半径20km圏内に避難指示
(4月22日以降「警戒区域」となり立入禁止に。2012年4月以降一部を除き「帰宅困難区域」に)

 避難開始当初、停電もあり、対象住民に原発事故発生について正確には伝わっていなかったようです。余震のための避難かと思い、すぐに帰れるつもりで、着のみ着のままで避難した方も多く、避難後、建屋の水素爆発の報道で初めて知った方もいたようです。

2011年7月撮影(南相馬市)

 南相馬市も、第一原発から20km圏内は立入禁止に。20km圏外も、海側は津波に遭い、まだあちこちに海から流されてきた漁船が撤去できずに残されていました。

2012年5月(南相馬市)

 1年経過して、原発20km圏内でも放射線量が低かった南相馬市小高区内への立入が許されましたが、当時、居住はまだ許されず、誰もいない町となっていました。国道6号線より海側の沿岸部にも住宅が並んでいたとのことでしたが、津波に遭い、まだ荒れ地のような状態でした。

2013年12月(南相馬・浪江町境)

 南相馬市と浪江町境にある牧場へ。牛たちは牧場内で放牧のまま。浪江町内へはバリケードで封鎖され立入禁止。線量計は4.03μ㏜/hを表示していました(この場所は現地の方のアドバイスを受けつつ、5分程度の視察で終了しています)。

2014年5月

 2012年に訪れた小高区の沿岸部へ。ここはまだ何も変わらず、そのままの状態。
 しかし、6号線を少し北上すると突然、黄色い菜の花畑が…! 海から近く、津波でご家族も亡くしたそうですが、再びここに住むと決めた住民の方が、家を建て直し、この地に笑顔で暮らせるようにと、菜の花畑を一面に作ったんだそうです。その前向きな姿に、希望と励ましをいただきました。

国内新着情報

› 続きを読む