対馬|国境の島の歴史と観光

対馬旅行


 対馬(つしま)は、日本と大陸の狭間にある島で、古代から重要な役割を果たしてきました。コロナ禍前には、韓国からの観光客も多く「テマド」(韓国語で対馬島に当たる言葉)と呼ばれて親しまれています。最近では、対馬を襲った元寇との戦いを題材にしたゲーム「Ghost of Tsushima(ゴースト・オブ・ツシマ)」が世界的にヒットし、話題になりました。

国境の島・対馬の歴史

 大陸に面した対馬は、古代より国防上の重要な要でもあり、国交の窓口ともなりました。
 古事記や魏志倭人伝にも登場し、白村江の戦い以後は、唐・新羅の攻撃を警戒し、金田城が築かれ、多くの防人(さきもり)たちも配備され、万葉集にもその歌が残されています。

 鎌倉時代には、元(モンゴル)の侵略「元寇」による襲撃を真っ先に受けることになります。
 元寇後の対馬は、反対に倭寇の拠点にもなりますが、室町時代、対馬の守護代を務めていた宗家4代宗経茂と弟・仁位(中村)宗香が、高麗からの要請に応える形で倭寇の取締を行ない、以後、宗氏が対馬での実権と朝鮮半島との交易を確立していきます。

宗義智像
宗義智像(万松院蔵):作者不明 P.D.
via Wikimedia Commons

 その後、対馬では倭寇勢力が再び拡大し、また豊臣秀吉の朝鮮出兵もあって、朝鮮半島との対立がおきますが、徳川江戸幕府になると、初代対馬府中藩主となった宗義智が、策略を凝らしながらも日朝関係(朝鮮通信使)の橋渡し役となり、釜山での交易を実現(慶長条約)。平地が限られ米の石高は少ない対馬藩でしたが、この日朝貿易と銀山開発によって藩の財政は潤っていったようです。

 明治維新後も朝鮮との交易とともに、対馬は国防上も重要視されます。ロシアやイギリスなどの列強各国を警戒した明治政府は、対馬を要塞化し、軍港並びに対馬各所に砲台を建設。1904年(明治37年)には日露戦争が開戦、翌年には「バルチック艦隊」で有名なロシアとの日本海海戦(海外ではBattle of Tsushima)が行なわれました。
 

厳原(いづはら)とその周辺

 厳原は、古代から対馬の国府が置かれ、今も対馬の玄関口として、対馬空港から車で20分ほどで着く島内で一番にぎわっている町です。博多港からの高速船が到着する港もあります。

金石城(金石屋形)

対馬藩金石城旧金石城跡庭園
写真提供: 長崎県観光連盟

 1528年の内乱で焼失した宗家の前屋形(池の屋形)に代わって建てられたのが金石屋形。
 朝鮮通信使を迎えるために整備され、その後も拡張によって金石城と呼ばれるようになりました。
 櫓門、城壁など復元ですが、国の史跡に指定されており、城内で発掘調査された庭園も国の名勝に指定されています。

万松院(ばんしょういん)

万松院

 日朝関係の橋渡し役として奔走した対馬初代藩主の宗義智。1615年、対馬藩主2代の義成が父義智の冥福を祈って、金石屋形の近くに創建した寺です。

 徳川将軍の大位牌や樹齢1200年と言われる万松院の大スギが3本あり、杉では対馬一の樹齢を誇っています。

武家屋敷跡

厳原城下町の武家屋敷

対馬藩の城下町だった厳原。
武家屋敷があったところは独特の石垣塀が囲い、当時の面影を残しています。ただ近年老朽化が進み、この石垣も少なくなってきているそうです。

対馬藩お船江跡

対馬藩お船江跡

 厳原中心地から車で5分ほどのところにあります。
 江戸時代、対馬藩が久田川の河口に藩船を格納するために構築した船着場の跡。満潮時には木造の大船が出入できる程の広さと深さがあり、干潮時には干上がるように出来ています。
 現在の遺構は寛文3年(1663)に造られましたものですが、築堤の石積みは当時の原形を保ち、これほど原形を保存している所は全国に無いといいます。

小茂田濱(こもだはま)神社

小茂田浜神社

 厳原の市街地から島の反対、大陸側の海に面した小茂田浜。現在は海水浴場になっている白浜ですが、かつては元寇による最初の襲撃を受けた場所です。
 2回の元寇のうち最初の文永11(1274)年10月5日、900艘の艦船に分乗した元・高麗連合軍3万人が佐須浦(小茂田浜)に襲来。
 守護代の宗資国以下主従80騎で防戦に努めましたが、全員が討ち死。小茂田濱神社には、宗資国をはじめとする戦死した将士の霊を祀っています。

その他の地区

和多都美(わたづみ)神社

 
和多都美神社

 浅芽湾に面し、独自の竜宮伝説に基づく彦火火出見尊と豊玉姫命の夫婦神を祭る海宮。
 本殿正面の5つの鳥居のうち2つは、海中にそびえ、干潮時には一番外側の海中鳥居「一の鳥居」まで歩いていくこともできます (2020年9月の台風10号により一の鳥居は倒壊。現在再建計画中です)。
 逆に、浅芽湾の観光船で、海から神社を望むことも可能です。
 社殿の裏には、巨樹・巨木が林立し、遊歩道も完備されており、森林浴も存分に楽しめます。

烏帽子岳(えぼしだけ)展望台

烏帽子岳展望台

 烏帽子岳(標高176m)は、対馬の中央に広がる浅茅湾(あそうわん)の北岸に位置し、360度をぐるりと見渡せる展望台です。
 東には対馬海峡、西には朝鮮海峡が広がり、複雑な入り江と無数の島々がおりなす典型的なリアス式海岸の景観を一望できます。


金田城(かなたのき・かねだじょう)

金田城
(C)対馬観光物産協会

 663年の白村江の戦いで大敗し、唐・新羅の侵攻に備えるため、天智天皇は、667年、この対馬・浅茅湾南岸に突き出した「城山」(じょうやま・標高276メートル)に「金田城」を築き、東国から召集された防人たちが城山山頂から朝鮮半島を睨み続けたといいます。
 それから1200余年後、同じくこの城山には日露戦争に備え、砲台が築かれることにもなりました。

韓国展望所

対馬の韓国展望所

 韓国まで49.5㎞の至近距離にある上対馬町は、まさに「国境の町」です。
 韓国展望所は対馬の北端部に位置し、天気のよい日には韓国釜山市の町並みが望め、釜山の夜景も人気です。

白嶽(しらたけ)

対馬の霊峰・白嶽
(C)対馬観光物産協会

 白嶽は古来より霊山として崇められた対馬のシンボル的存在。
 標高519メートル。登山口から山頂までの距離2.2キロ。低地部は、大陸系植物と日本系植物が混生する原生林が拡がり、頂上付近は急傾斜の岩場となります。登山中級者以上向けです。

近代の砲台跡

 明治維新後、対馬は、大陸に向かう最前線基地として要塞化が進められ、明治20年から昭和20年までに30箇所を超える多くの砲台が建設されました。

姫神山砲台

姫神山砲台姫神山砲台跡
写真提供: 長崎県観光連盟 

 姫神山砲台は、明治33年2月着工、明治37年1月に6門の28センチ榴弾砲が備え付けられた明治期を代表する砲台跡です。施設は、赤レンガと砂岩で造られており、今では周囲の自然と調和・融合し、レトロな雰囲気が美しい空間を醸し出し「天空の要塞」とも呼ばれています。

豊砲台跡

豊砲台
写真提供: 長崎県観光連盟

 対馬の北端に位置しますが、砲台入口まで車で行くことができます。
 1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約の結果、戦艦から空母艦化されることになった「赤城」の主砲が据えられました。
 実践では一度も発射することがなく、「撃たずの砲台」とも言われますが、それだけ対馬要塞の威圧の効果が大きかったと言えます。

対馬の料理

 海の幸は、言うまでもなく豊富。アカアマダイ、クエ(あら)、アカムツ(のどくろ)、太刀魚、アナゴ、サバ、ウニ、サザエ、ヒラマサや寒ブリも魅力ですよね。イカ漁も盛んで、剣先、水イカ、スルメイカなど…種類も豊富。行った時々で、旬な魚介をお召し上がりください(^^)/

対馬の海鮮料理対馬名物アナゴ
 

対州そば

対州そば
写真提供: 長崎県観光連盟

「対州」とは、対馬の別名。
 元々ソバは、縄文時代に朝鮮半島から対馬を経て、各地に伝わったとされていますが、対州そばは、その原種に近いソバのことを言います。
 今、多くある種に比べ生産量が低く、小粒ですが、ソバ本来の風味が強いのが特徴です。

郷土料理「いりやき」

対馬いりやき
写真提供: 長崎県観光連盟

 地鶏やメジナ、ブリなどの魚と、たっぷりの野菜を具材とする寄せ鍋です。鶏や魚を椿油で炒めてから鍋にすることから、「いりやき」と呼ぶようになったともいわれています。
 対馬では、冠婚葬祭や特別なお客さんをもてなす時に食べるごちそう料理でした。
 対州そばにかけて食べる「いりやきそば」も有名です。

対馬とんちゃん

対馬とんちゃん
写真提供: 長崎県観光連盟

 戦後、北部の上対馬で在日韓国人から伝えられた味付きの豚焼肉を元に、対馬流にアレンジされていったもの。
 他の地方では「とんちゃん」と言うとホルモン焼き(内臓)を指す場合がありますが、対馬のとんちゃんでは豚肉が使われています。

国内新着情報

› 続きを読む