韓国陶磁器|ミニ知識

2024年は京畿世界陶磁ビエンナーレ開催

2024年9月6日(金)~10月20日(日) 利川、広州、驪州
  陶磁ビエンナーレは、2001年より京畿道・利川を中心に2年に1度行なわれてきましたが、今年は2021年以来、3年ぶりでの開催となります。

さらに味わいのある旅に… 韓国陶磁器のミニ知識。

韓国広州 京畿陶磁器博物館 韓国は古代から世界的にも早くから磁器技術を習得し、独自発展を遂げたことで有名です。しかしその発展の背景は、国家の政策や状態、周辺国の侵略も大きく影響を受けています。
 ちょっと知っておくと、旅先での味わいが、さらに深くなるかもしれませんね。陶磁器については素人なのですが、高麗青磁、粉青沙器、朝鮮白磁の歴史とその違いについて、ちょっと旅してみましょう。

高麗青磁

高麗青磁 青磁は、酸化第二鉄が混ざった土や釉薬を塗り、1,200℃以上の高温で焼くことで、酸化第一鉄に還元され、青~緑の透明ガラス状になることを利用した陶磁器です。
 青磁の歴史をたどれば、もともとは古く中国・殷(商)の時代(15世紀BC-10世紀BC)が起源と言われ、灰釉を使った原始青磁と呼ばれるものです。
 本格的な青磁釉を使った青磁が完成したのは、後漢(25-220)の中頃の古越州窯で、唐(618~907)の末期頃には優れた「秘色青磁」が作成されるようになりました。

 韓国での青磁技術は、中国と貿易が活発に行われた9世紀、統一新羅(676-935)の末期頃に、中国・宋の時代の越州窯より習得していたようです。しかし、高い技術力を要したため、主流はまだ中国製で、極めて高価なものでした。
 本格的に韓国産の青磁が創られるようになったのは、やはり高麗の時代に入ってから(高麗王朝 918-1392)。韓国独自の技術発展を遂げ、12世紀前半頃、全盛期を迎えます。これが「高麗青磁」です。当時は主に南部の全羅南道の康津と、全羅北道の扶安で製作されていたようです。

 中国での青磁の色は「秘色」と呼ばれていたのに対し、高麗青磁は「翡色」と評され、朝鮮半島だけでなく中国各地でも「天下一」の名品として高く評価されるようになりました。陶磁器の表面に彫細工を入れた後そこに他の材料を練りこんで模様を出すという象嵌技法で作った高麗青磁は陶磁器芸術の最高峰として考えられています。
 13世紀以降になると、蒙古(モンゴル)の台頭、経済力の衰退などの影響を受け、作品の水準が落ちていきます。14世紀末になると粉青沙器が主流となり、高麗王朝の滅亡とともに、高麗青磁も姿を消していきました。

 近代になって、利川の陶芸家、柳海剛によって、再び高麗青磁の技法が復元され、利川の陶芸家を中心に現代に引き継がれています。
窯元見学 高麗青磁
乾かした土器に彫り細工を施した後(右)、
白い土で埋める(左)のが象嵌技法。


窯元見学 青磁の工程
写真右が、象嵌技法を施した段階、
真ん中は釉薬を塗った途中の段階、
一番左が焼き上がり。
焼きあがると、製作時より小さくなる。

粉青沙器

韓国陶磁器 粉青沙器  モンゴル人の侵入が始まり、高麗の勢力が弱まってくると、動乱の中、手間隙のかかる高麗青磁は次第に衰退していきました。
 代わりに重宝されるようになったのが、粉青沙器。鉄分の多い陶土に、細かい白土釉で化粧掛けを施したもので、日本で言う「三島」にあたります。
 朝鮮時代(1392~1910)の前期、特に15世紀~16世紀の主流で、特に世祖の時代(1450~1470)の頃、全盛を迎え、作品には象嵌、印花技法など匠な技法も凝らされています。
 しかし、1467年頃より広州に官窯が設置されてから、白磁が納められるようになっていくと、粉青沙器は民間需要のみになり次第に衰退、16世紀半ば頃には姿を消して行きました。
 粉青沙器では、慶尚北道の聞慶も有名です。>>>おすすめ韓国「聞慶」

朝鮮白磁


 粉青沙器に並び、朝鮮時代を代表かるのが朝鮮白磁。
 中国での白磁の歴史は青磁と並び古く、南北朝時代の北斉(550-577)にまで、さかのぼります。北の白磁、南の青磁と中国を代表する陶磁器となっています。

朝鮮白磁 純白磁 純白磁 朝鮮白磁の基本形は、「純白磁」。白土と透明の釉薬のみで焼いたものです。
 韓国でも15世紀前半には純白磁が作成されていたようですが、白磁が一躍飛躍し、李氏朝鮮時代を代表する陶磁器になったのは、やはり1467年頃広州に官窯が設置されてからでしょう。広州には良質な胎土、豊富な薪、また首都漢城(ソウル)にも近く、立地条件が揃っていました。白磁は、宮廷の貴族的な嗜好や、儒教文化にもマッチして、朝鮮文化として発展を遂げるようになります。 

朝鮮白磁 青画白磁 官窯前期のころの白磁は、白磁の釉下にコバルト顔料で青色文様を描く青花(青画白磁)が多く好まれ、洗練された作品が作成されています。
 しかし、16世紀末から17世紀はじめにかけては、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)や清の侵略を受けて、陶磁生産も打撃を受けます。
 政局も不安定となり、経済的な打撃も受け、価格の高いコバルト系の顔料が入手できなくなります。
 そこで、安価に入手できる茶褐色の鉄画顔料で絵付けする鉄画白磁・鉄砂(てっしゃ)が盛んになりました。前期(15~16世紀)の頃の鉄画白磁は少ないものの、宮中画員らの洗練された絵付の作品が残されています。一方、後期の17世紀の鉄画白磁は、文様が単純化され、自由で素朴な作品が多くなっています。
朝鮮白磁 鉄画白磁
 18世紀になると、赤褐色に発色する銅画白磁も作られるようになりました。
 
 日本の有田焼は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、鍋島直茂が連れ帰った陶工(李参平)が、有田の泉山で白磁鉱を発見し、日本初の白磁を焼いたのが始まりとされています。一時は韓国からの技術を導入するために、各大名が陶工を呼び寄せるのに躍起にもなっていたようです。