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デリーの観光地

 インドの首都デリー、インドの近世~現代に至るまでの歴史が詰まっています。
 初めて都になるのは、1192年。通称奴隷王朝の時。それまでは一地方都市だった言えるでしょう。
 文化の華を咲かせるのはムガル帝国の全盛時代。一時は、アグラなどへ遷都もされますが、1648年、ムガル第5代皇帝シャー・ジャハーンが、再びデリーへ都を戻し、城下町を築き上げます。これが今でいうオールドデリーです。
 やがてイギリスが植民支配すると、デリーの南に新たな計画都市ニューデリーが造成されました。 

オールド・デリー

オールドデリーとリクシャー デリーは、通称「オールドデリー」と、「ニューデリー」とに分けられます。
 オールドデリーは、ニューデリー建設以前からある本来のデリー。歴史的建造物が多く、現在のデリー市中心域からみて北東に位置しています。
 ムガル帝国の首都だった地域です。一時はアグラなどへ遷都もされますが、1648年、第5代皇帝シャー・ジャハーンが、再びデリーへ都を戻し、城下町を築き上げます。これが今でいう「オールド・デリー」です。
 自転車タクシー「サイクル・リクシャー」で周ることもできます。ちなみにリクシャーとは、日本語の「(人)力車」から来ているようです。

ラール・キラー(レッド・フォート)【世界遺産】

デリーおすすめ ラール・キラー  オールド・デリーの中心となるのが、世界遺産にも登録されている「ラール・キラー」(レッド・フォート「赤い城」)です。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、アグラからデリー(当時は「シャージャハーナーバード」)に遷都した際、建てられた城塞で、デリー城とも呼ばれています。

  シャー・ジャハーンは、あのタジマハルを作った皇帝。しかし第3子の第6代アウラングゼーブによって、アグラ城に幽閉されてしまいます。アウラングゼーブはムガル帝国最大の領土を獲得しますが、以後は徐々に衰退していきます。ムガル最後の皇帝となる第17代バハードゥル・シャー2世の時代には、実質、デリーの一領主に過ぎなくなっていました。

ラールキラー前 1857年、支配を強めるイギリス東インド会社に、反旗を翻した「インド大反乱」が勃発。反乱軍は最高指導者として第17代皇帝バハードゥル・シャー2世を担ぎだします。皇帝自身は反乱に積極的ではなかったと言われますが、まもなく降伏。イギリスが反乱を鎮圧すると、皇帝もミャンマーへと流刑され、ムガル帝国は完全に滅亡します。

 ラールキラーは、その後、イギリス軍の駐屯地、独立後もしばらくインド軍の施設として使われましたが、2007年に世界遺産に登録。毎年8月15日のインド独立記念日には、ここで首相演説も行われています。

ジャマー・マスジッド

デリーおすすめ ジャマー・マスジット やはり第5代皇帝シャー・ジャハーンによって、1656年に建てられたイスラム教のモスク。インド最大規模の寺院で、中庭では最大2万5000人が礼拝できるそうです。

 正面左の塔(ミナレット)からの眺望は素晴らしく、ジャマー・マスジッドの大ドーム、ラール・キラーの全貌、そしてニューデリー、オールドデリーの市街が一望できます。


ジャマー・マスジット内のモスク モスクのドーム下にある礼拝室(ハラム)では、普段から、礼拝する姿が見られます。黒大理石によって、およそ縦90センチ、横45センチ枠線が作られていおり、これが一人分の礼拝スペースとなり、899人分が用意されています。

ラージ・ガート

ラージ・ガート レッド・フォートの南側、ヤムナー河の河沿いに、「インド建国の父」と呼ばれたマハトマ・ガンディーが火葬された場所があり、周囲は美しい公園になっています。

 決して無抵抗ではなく「非暴力」で独立運動を唱え、結果として、1947年8月15日イギリスの植民地支配からインド独立へと導いたガンディー。彼自身はヒンドゥー教ですが、国内イスラム教徒とも対立するのではなく、共存、融和を図ったため、1948年、熱狂的なヒンドゥー原理主義の運動家によって暗殺されてしまいます。
ガンディーが火葬された場所
 彼は銃弾を浴びた時、イスラム教では「あなたを赦す」という意味を持つ、自らの額に手を当てる動作をしたと言われています。火葬された場は黒い大理石が置かれ、最後の言葉「へー・ライム(おお、神よ)」と言う文字が刻まれています。ガンディーの遺灰は、ガンジス川をはじめとするインド各地の川に流されました。

ニューデリー

ニューデリーおすすめ ラージパト ムガル帝国時代からのデリーの市街地(オールドデリー)の南側。
 1911年、イギリス領インドの行政府がコルカタからデリーに移設されることになり、イギリス人建築家エドウィン・ラッチェンスによって、新たに建設されたのが「ニューデリー」。

 ニューデリーの中央、東にインド門、西にインド総督官邸(現在の大統領官邸)があり、「ラージパト(王の道)」と呼ばれる大通りで結ばれています。さらに市街北側には円形緑地帯のコンノート・プレイスがあり、この3点を中心に放射線状に道路が延びています。

 インド独立後も首都として、 大統領官邸、国会議事堂や中央官庁、また各国大使館もニューデリーに置かれています。インド政府や日本の外務省のサイトでは、インドの首都を「ニューデリー」としていますが、実際には、ニューデリーという単独の市があるわけではなく、オールドデリーも含めて「デリー」となります。

インド門

デリーおすすめ インド門 ニューデリー建設が決まって間もなく始まったのが、第一次大戦(1914~1918)。
 インドの自治権を条件にイギリスに協力、120万の兵員の兵士を動員、戦死した約8万5千人のために建てられたのが、このインド門です。
 ニューデリーを建設した建築家ラッチェンスによって建てられました。高さ42mあるインド門のアーチには、兵士約13,000人の名前も刻まれています。

 しかしながら大戦後、インドの自治権はごく限られた一部しか実現せず、やがてガンディーによる不服従運動へと繋がっていきました。

フマユーン廟【世界遺産】

デリーおすすめ マフユーン廟 世界遺産 ムガル帝国第二代皇帝フマユーンの墓で、皇帝の死後、妻が建てさせたもの。赤砂岩に白大理石をはめ込んだ色のコントラストと左右対称のシルエットが 美しく、世界遺産にも登録されています。

 第二代皇帝マフユーンは、詩とワインを愛する文化的な皇帝でしたが、軍才には書いていたようです。インドの東側より台頭してきたスール族のシェール・ハン(のちのシェール・シャー。スール朝)に敗れ、15年ペルシアに亡命、一時、ムガル帝国も姿を消します。
 その後、再度北インド一帯を奪還、帝国を再興するものの、階段からの転落事故でなくなりました。

フマユーン廟 フマユーン模棺 建物内の中央には、白大理石の棺がありますが、これは仮の模棺で実際の遺体は、この下に埋葬されています。
 この墓廟にはフマユーンの他にも、王妃ベーガム、王子ダーラー・シコー、重臣たち、約150人が埋葬されているそうです。

 フマユーン廟は、イスラムのペルシャ文化とインド伝統の様式が融合されたインド・イスラーム建築の傑作として知られ、壮大なムガル建築文化の礎にもなりました。手前の庭園も、4つの区画に分けられた正方形の庭園(四分庭園)となっており、ペルシア様式の影響が見られます。
 後に第5代皇帝シャー・ジャハーンが建設したタジマハルには、このフマユーン廟の影響が見受けられます。

クトゥブ・ミナールとその建造物群【世界遺産】

デリーおすすめ クトゥブミナール ニューデリーの南郊外約15kmほどのところにある世界遺産。

「ミナール」とはモスクの尖塔(ミナレット)のこと。
 クトゥブミナールは、1200年頃、インド最初のイスラム王朝となるインド・マムルーク王朝(通称「奴隷王朝」)の建国者クトゥブッディーン・アイバクによって、ヒンドゥー教徒に対する勝利を記念して建て始められました。アイバク存命時には第1層のみが完成し、残りの2~3層は後継のイールトゥミッシュに引き継がれ、建設されました。
 
 建築様式はヒンドゥーの様式も見られ、破壊されたヒンドゥー寺院の石材や、建築作業を行なった人たちもヒンドゥー教徒ではないかと見られています。
 高さは72.5mあり、世界で最も高いミナレットになりますが、地震や落雷などにより先端部分が崩れて修復した後があり、当初は100mほどの高さがあったといわれています。
世界遺産 クトゥブミナールの建築群
 一帯の建造物群も含めて世界遺産として登録されており、中には、1188年、アイバクによって建てられたインド初のモスク、クワットゥル・イスラーム・モスクがあります。
 また、1312年に着工された未完のミラレット「アライ・ミナール」もあります。財政難のために建設は中止しましたが、アライ・ミナールが完成すれば、クトゥブミナールの2倍の高さになったと言われています。