ニニ八事件

台湾歴史旅行 ニニ八事件 1945年日本の統治が終わり、中華民国(国民党)政府による統治が始まった台湾。
 しかし、変わって間もない1947年2月28日、元々台湾在住の台湾人と、大陸から来た国民党政府との間に激しい対立が起こります。それが「ニニ八事件」です。
 以後、約40年に渡り戒厳令と厳しい言論統制が引かれた台湾では、近年まで公にこの事件が語られることはありませんでした。
 現在は、台湾各地にニニ八紀念碑も建てられ、真相究明や被害者の名誉回復、また台湾の民主主義の重要性を訴えながら、事件の模様が伝えられています。

明かされずに来た台湾の真実「ニニ八事件」

●日本統治から国民党政府へ

台湾での日本降伏文書取り交わし
中華民国との日本降伏文書取り交わし
 1945年日本が敗戦し、連合軍からの要請で、大陸本土から蒋介石率いる中華民国(国民党)政府が日本からの台湾接収、統治のために進出してきました。
 当初は、日本統治時代から住む台湾人(「本省人」と呼ばれる。当時は日本国籍を保有)も、植民地支配からの開放、同族による統治ということで歓迎しました。本省人に対し、本土から訪れた中国籍の人たちを「外省人」といいます。

光復を祝う横断幕(台北市内)
光復を祝う横断幕(1945台北)
 台湾は元々多民族、多言語の島であり、本省人の多くが使う福建に近い台湾語と、外省人が使う北京語の間も言葉の壁が生じていました。
 中華民国から台湾行政長官として着任した陳儀は、本省人の登用は避け、政府機関に外省人を多用します。しかし、この時、大陸では中国共産党の人民解放軍と内戦状態であり、南京にある国民政府も台湾までには優秀な人材を送ることはできずにいました。規律が正しく取れず、役人や軍人による横領、略奪、賄賂、犯罪もしばしば発生してしまいます。
 
 また国民党政府は、日本政府から引き継ぐ形で、塩、酒・砂糖・タバコ等の専売制を取り、むしろ強化します。農作物も内戦中の大陸に送られるため、台湾内では品不足、物価の高騰などを招き、庶民の生活を圧迫していました。

●ニニ八事件

 1947年2月27日、闇タバコを販売していた女性が取締にあい、懇願する女性(子持ちの寡婦)を警官は銃剣の柄で殴打、商品および所持金全部を没収していきました。それを見た民衆たちが抗議したところ、民衆たちに銃を発砲、その場に居合わせた男性1名が死亡する事件が起きます。

ニニ八 専売局に押し掛けるデモ隊
専売局に押し掛けるデモ隊
 民衆の不満が爆発。翌2月28日、商業店舗がストライキ、また抗議デモ隊が専売局に押し寄せ、書類等を焼き払います。政府は非武装のデモ隊に向け、銃を一斉掃射してしまいます。
 デモ隊は、現在のニニ八和平公園(当時は台北新公園)に集結。同敷地内にあり、当時は中華民国が接収していたラジオ放送局(旧台湾放送協会台北支局)を占拠。ラジオを通じ、日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と呼びかけ、全国規模のデモへと展開していきます。
旧台湾放送協会
旧台湾放送協会(1931年)
 複数の言語が存在している台湾で、本省人の共通語となりえたのは、統治時代に一貫して教育された日本語であったのです。

 一時は暴力的に訴えていたデモ隊も、知識人たちの取りまとめに寄り、政府との交渉に向かいます。
 行政長官の陳儀は、3月2日に「二・二八事件処理委員会」を発足させ、本省人側と話し合い、譲歩する姿勢を見せながら、実は時間を延ばしつつ、背後で大陸にいる蒋介石に台湾人の暴徒化と武力弾圧の必要を訴え、援軍を要請していました。


力軍「恐怖的検査」(1947年木版)
 3月8日、大陸から援軍が台湾に上陸すると、直ちに武力弾圧が開始され、3月9日は戒厳令が発せられます。一部では、市民への無差別発砲や殺戮も行なわれ、特に日本統治時代に高等教育を受けた知識層は、容疑も定かではない中、続々と逮捕、投獄、拷問を受け、処刑あるいは行方不明者も多数おります。
 この時に亡くなった本省人は2万を超えると言われていますが、定かな数字すらわかっていません。本省人側も自主的な防衛軍を結成しましたが、まもなく制圧されてしまいました。

●40年に渡る戒厳令と言論統制

ニニ八事件直後
事件直後に訪台した中華民国国防相
 1947年5月になって、ニニ八事件による戒厳令は解除されるものの、大陸では1949年10月に中華民国の首都南京が、中国共産党の人民解放軍によって占拠され、南京国民政府が崩壊。共産党による中華人民共和国が建国されます。

 1949年12月、国民政府(中華民国)は、首都を台湾・台北に遷都すると同時に戒厳令を施行します。
 党の批判や政権交代を赦さない、党と国家を同一視する党国体制となり、1950年3月には、一時期、引退を表明していた蒋介石が総統に復職(5期連続。1975年まで)。中華民国(国民党)の実効支配は台湾島および周辺諸島に再編成され、台湾から中国大陸への復帰を目指す体制が築かれました。

蒋介石総統
蒋介石総統(1966年)
 以後、世界最長となる1949年から1987年までの約38年間、戒厳令が引かれ、一党独裁の政治体制のもと、白色テロとも言われる厳しい言論統制や知識階級への弾圧が続きます。
 もちろん形の上で反政府的なデモとも捉えられるニニ八事件についても、公に語られることはありませんでした。

●戒厳令解除とニニ八和平公園設立

嘉義のニニ八紀念碑
台湾初のニニ八紀念碑(嘉義)
Photo:MK2010(CC
 戒厳令が解除されるのは、1987年。蒋介石が亡くなり、息子の蒋経国が総統になってからです。
 こうして、ようやくニニ八事件の真相究明、被害者の名誉回復を目指す動きが始まり、1989年になると嘉義で台湾初となるニニ八の紀念碑が建てられ、またニニ八事件も織り込んだ台湾映画「悲情城市」( 侯孝賢監督1989年)も公開されました。
 しかし、まだまだ弾圧は残っており、本格的に台湾で言論の自由が認められるようになったのは、李登輝が総統の時、1992年に刑法が改正されてからのことです。

 台北では1996年2月28日、当時の陳水扁台北市長のもと、新台北公園内に二二八和平紀念碑が立てられ、公園の名称も二二八和平紀念公園となりました。また旧台北放送協会の建物は二二八和平紀念館となり、資料と共に展示されています。
 

ニニ八和平公園

台北旅行 ニニ八和平公園 この公園自体の歴史は古く、日本統治時代の1908年、都市計画の一環としてに開園。台湾初のヨーロッパ風近代的都市公園で、台北新公園と名付けられました。

 日本統治が終わり、中華民国の統治下に移った後、1947年2月28日、政府への不満が爆発した民衆(統治時代からの本省人)が、政府専売局に抗議デモし襲撃。政府は銃で一斉掃射、ニニ八事件が勃発します。
台北ニニ八和平紀念碑 デモ隊はこの公園に集結し、同敷地内にある台湾ラジオ放送局(旧:台湾放送協会)を占拠。ラジオ電波を通じて、蜂起を呼びかけます。
 中華民国政府は、これを武力鎮圧。
 その後も、戒厳令とともに言論統制が引かれた台湾では、このニニ八事件について公に語られることすらありませんでした。
 近年、公にこの事件が語られるようになったのは、1988年、李登輝が総統になってからです。

 1996年2月28日、当時の台北市長陳水扁(後に中華民国総統)が、この公園の名称を二二八和平公園に改称し、二・二八事件で犠牲者を追悼する和平紀念碑も作られました。

●ニニ八紀念館(旧:台湾放送協会 台北支局)

台北旅行 ニニ八紀念館 NHK日本放送協会の台湾版として設立された放送局が、台湾放送協会(THK)。
 台北支局の建物がニニ八和平公園の中に現存し、1996年になって、ニニ八事件や独立運動に関わる史料とともに「ニニ八紀念館」として公開されています。
 台湾放送協会は、ニニ八事件の当時はすでに中華民国政府によって接収されていましたが、民衆が放送局を占拠。ここから日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と呼びかけたのでした。

ニニ八国家紀念館


Photo: Winertai(CC)
 ニニ八和平公園内のニニ八紀念館とは別に、「ニニ八国家紀念館」も設立されています。
 建物は日本統治時代の台湾教育会館として建設され、一時はアメリカ大使館があった場所です。2011年2月28日にニニ八事件の犠牲者の名誉回復、真相究明を目的として開設いたしました。
 台湾全体での事件の経緯、詳細に加え、犠牲者の紹介、拷問の実態などの常設展に加え、その時折で、真相解明、人権回復などのテーマに特別展も展示されています。

台湾各地にあるニニ八紀念碑、紀念館

嘉義のニニ八紀念碑
台湾初のニニ八紀念碑(嘉義)
Photo:MK2010(CC
 台湾で初めてニニ八事件の紀念碑が作られたのは、1989年の嘉義です。当時はまだ国民党による圧力も多く、妨害、破壊行為、またデザイナーの詹三原は完成後に1年半、投獄もされています。
 その後、基隆、台中、高雄、そして台北など、台湾各地にニニ八事件を後世に物語る紀念碑、紀念館が建てられていきました。

 また現在、高雄にある高雄市立歴史博物館では、現在、常設展として「ニニ八・0306」が展示されています。この建物は日本統治時代には旧高雄市役所で、ニニ八事件当時には「高雄市二二八事件処理委員会」が開かれていた場所です。しかし、1947年3月6日、大陸から来た中華民国軍の武力鎮圧が行なわれた、まさにその現場でもあるのです。