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■旅行前に知っておきたい!百済の歴史
 高句麗、新羅とともに韓国の三国時代を築いた百済(くだら・ペクジェ)。
 日本(倭国)との関わりも深く、唐も含めて、東アジア一円の社会、文化に深く関与しています。
 その歴史を紐解くことで、旅行の楽しみも倍増!まずは、百済の歴史を旅してみましょう。

百済地図
371年百済が一時的に占有した領域
Map_of_Baekje.jpg (C) Evawen
 百済(くだら)は、朝鮮半島南西部を占めた古代国家。
 一般的に、支配階級は北の高句麗王族と同じく、中国満州付近から出た扶余族と見られています。「隋書」百済伝には、「百済の祖先は高(句)麗国より出づる」とあり、新羅、倭国、また中国からも渡来してきた人が住み、他民族的な国家を形成していたようです。
 韓国・朝鮮史上では、およそ紀元前1世紀から紀元後7世紀までの間、半島北部の「高句麗」、南東部の「新羅」、そして南部の伽耶諸国とあわせて南西部の「百済」の三国が支配していた時代を「三国時代」といいます。

■建国神話 (前18年〜)
 韓国の三国史記によると、百済の建国は、紀元前18年となり、高句麗の祖である朱蒙(チュモン)の三男、温祚によって建国されたとされています。温祚は、慰礼城 (現在の広州市 南漢山城か?)に都を定め、10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼んだのが始まりとされています。
 韓国の教科書でも、紀元前18年を百済建国の年として採用しているそうですが、韓国の歴史家の間では、紀元前1世紀から紀元後3世紀まで様々な説があり、日本や中国では3世紀頃の成立という見方が有力です。
三国時代の百済
三国時代の地図、5世紀終わり頃
Map of zenith Goguryeo.jpg (C) Evawen

■前期 漢城時期( - 475年)
 中国の史料の上でも「百済」の存在が明確になるのは、第13代の近肖古王(346年即位)から。この頃の百済の都「漢城」は、ソウルの南、風納土城、夢村土城(現在のオリンピック公園)と考えられています。
ソウル 夢村土城跡
夢村土城の土塁跡(ソウル)

 近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗の広開土王に反撃され、そのため、新羅、日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。
 しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。

■中期 熊津時代(475年 - 538年)
 長寿王の攻撃から逃れた蓋鹵王の子、文周王は都を熊津(今の忠清南道 公州)に遷すものの、大臣に刺客を送られ、暗殺。しばらく混乱期が続きます。
 第24代東城王は、新羅、倭との関係を密にし、南へ領土を広げ
東城王の宴会場「公山城・臨流閣」公州
、百済王権と国力の回復に成果を挙げるものの、晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、臣下によって暗殺されます。
 第25代 武寧王の時代になって、ようやく百済王権の回復を見せます。しかし、次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させていきます。
 武寧王の亡き後即位した、第26代 聖王(日本書紀での「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南のサビ( 泗● :さんずいに「比」・しび)、今の扶余へ遷都しました。

■後期 サビ時代(538年 - 660年)
 サビに遷都した聖王(「聖明王」)は、国号も「南扶余」と変えましたが
扶余 定林寺 五重塔
滅亡の傷跡を残す 定林寺・五重塔
、その名は定着しなかったようです。
 551年、聖王は、新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、旧都の漢城地方を取り戻しますが、翌年、高句麗と連合した新羅に奪われ、同盟関係にあった新羅と対立が生じます。そのため聖王は、倭国に援軍を要請、仏像・経典などを送ったのもこの時期です。聖王は、積極的に仏寺の造営をすすめ、王興寺・定林寺などの寺址が扶余で発見されています。しかし、聖王は、554年に新羅との戦いで戦死します。
 その後、百済は次第に、かつての宿敵・高句麗と同盟を結ぶようになり、百済最後の王となる第31代義慈王は、執拗に新羅に攻め入ります。国際的にも孤立することとなった新羅は、善徳女王をはじめとして、唐に救援を求めるようになります。
 はじめは新羅と百済の和平を求めていた唐ですが、百済 義慈王に和平の意思はなく、唐の3度にわたる高句麗制圧も失敗に終わると、新羅と同盟を結び、百済を攻撃する方針に切り替えていきます。
 こうして半島情勢は、「百済-高句麗」VS「新羅-唐」の対立構造となり、日本(倭国)ががどちらに着くかが外交の焦点となりました。

■百済滅亡と白村江の戦(660-663年)
 660年、ついに唐は13万人の大軍を動員、新羅の5万の兵と連合して、百済に攻め入ります。
扶余 扶蘇山城より眺める白馬江
扶余・扶蘇山城より白馬江を望む
 百済軍は、黄山之原(現在の忠清南道 論山)において決戦に挑み、善戦するも新羅軍に大敗。一方、唐軍を白江(現在の白馬江。錦江の中流 扶余付近)に引き込む作戦に出るも大敗。唐軍がシビ城を包囲すると、義慈王は旧都の熊津城(錦江の中流域)に脱れたものの降伏し、ついに百済は滅亡したのでした。

 百済の滅亡後も、百済の遺臣たちは百済復興を願い、各地で抵抗を続け、人質として日本へおくられていた百済の王子豊璋も、高句麗や日本(斉明天皇、中大兄皇子ら)の支援を受けて、唐・新羅連合軍と戦いますが、内部分裂を起こしてしまいます。
白村江の戦い 錦江河口付近
白村江?錦江河口付近(群山)

 日本(倭国)からも、3万7千人余りの軍が送られ、豊璋らとともに、663年、「白村江」(今の錦江?)の河口付近で、唐・新羅の連合軍と戦いますが、結果、大敗に終わりました。日本史上の「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」です。

 百済滅亡についで、唐・新羅連合軍は、668年に高句麗を滅ぼし、これによって三国時代は終わり、統一新羅の時代がはじまりました。

■参考文献 ウィキペディア(Wikipedia) 百済

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